腎臓病の歴史
腎臓病(第7章)

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腎臓病の歴史~1972年に転機を迎えた透析療法

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腎臓病 (7章-1) 透析治療のこれまでの歴史

透析の原理が発見されたのはおよそ100年前で、
透析装置が本格的に開発されるようになったのはここ50年ほどといわれています。
しかしこの間、透析療法は目覚ましい進歩を遂げています。
透析装置にスポットを当て、現在に至るまでの歴史を追ってみます。

19世紀中ごろ透析の原理を発見

 今でこそ多くの透析患者が不安なく暮らしていますが、透析療法のない一昔前、腎不全は尿毒症の末、死を待つしかない病でした。腎臓病治療の歴史は透析療法の発展の歴史といっても過言ではありません。
 透析は英語でDialysisといいますが、その語源はギリシャ語で“分離”を意味します。この言葉を作ったスコットランドの化学者、トーマス・グラハムは1854年、特定の物質を透過する半透膜(透析膜)を発見し、異なる濃度の溶液を分離する半透膜の技術が医学に役立つのではないかと推測しました。しかし、その推論が実証されるまでには半世紀以上の歳月を要します。
 アメリカ人のアベルは1914年、透析膜を使用して世界最古の人工腎臓を開発し、動物を用いて体外循環血液透析を実施します。しかし、血液は体外で酸素に触れると凝固作用を起こします。当時はヒルの唾液から抽出したヒルジンが唯一の抗凝固系物質でしたが、1916年に哺乳類からのヘパリン分離に成功し、以後は抗凝固剤としてヘパリンが用いられるようになります。
 その後、急性腎不全の患者に対する透析治療の実施も始まりましたが、当初は必ずしもうまくいきませんでした。世界初となる人工腎臓による生存者は、オランダ人のコルフが1945年に開発したローリング・ドラム式ダイアライザーが登場するまで待たなければなりませんでした。この人工腎臓は膜面積2.0㎡のダイアライザーで、6時間で35gの尿素を除去できたといわれています。

透析療法の進歩は戦争のおかげ?

 透析療法の進化は、戦争によってもたらされたともいわれています。コルフがローリング・ドラム式ダイアライザーを開発したのも第二次世界大戦中のナチス占領下で、爆撃によるクラッシュ症候群で急性腎不全を患った多くの兵士を救うためでした。クラッシュ症候群とは、がれきの下敷きなどで筋肉が長時間圧迫されることにより、壊死(えし)した筋肉細胞から血液中に大量のカリウムやミオグロビンなどが漏れ出し、それが尿細管に詰まって急性腎不全を起こす状態をいいます。特徴的なのは、圧迫から解放された直後は意識があるため軽症とみなされがちですが、時間がたつにつれ重篤な状態になり、死に至る場合が少なくないのです。戦争だけでなく、災害や事故などでも起こります。1995年の阪神・淡路大震災や2005年の兵庫県尼崎市におけるJR福知山線脱線事故で、多数の犠牲者を出したのは記憶に新しいところです。
 また、透析技術が長足の進歩を遂げたのは、1950年に起きた朝鮮戦争がきっかけです。米国が前線でまん延していたクラッシュ症候群に伴う急性腎不全の死亡率を下げようと腐心した結果、現在に通じる透析装置が開発され、兵士の死亡率を9割から5割に低下したといいます。この画期的な業績により人工透析は国際的に注目されるようになり、企業による透析装置の開発も本格化し、1955年頃から急性腎不全の治療に使われるようになっていきました。

外シャントの開発で慢性腎不全の治療にも適用

 ただし、1960年頃まで多く行われていた透析療法は、一時的に尿毒症の症状が改善すれば元の体に戻る急性腎不全の患者に対してのみです。慢性腎不全の治療では透析療法を永続的に行っていかなければなりません。そのため、当時の血管アクセス技術では血管がいずれ破壊してしまうことから、継続的な透析療法は不可能でした。それを可能にしたのが、スクリブナーによる世界初の埋め込み型外シャントの開発です。これにより血液に何回でもアクセスできるようになります。また、長時間の治療に耐えられるキール型の透析装置も開発され、慢性腎不全の治療への適用が始まります。
 1966年には現在使われている内シャントが開発され、透析療法の普及にさらに弾みをつけます。近年では浄化器や透析膜の進化が目覚ましく、血液を安全に浄化できる現代の透析療法へと至っています。

「外シャント」と「内シャント」の仕組み

 「外シャント」は腕にある動脈と静脈を、体外に用意したチューブを介してつなぎ合わせる。「内シャント」は腕にある動脈と静脈を体内で直接つなぎ合わせる。最近は内シャントが主流となっている。

腎臓病 (7章-2) 日本における腎臓病治療の歴史

日本における腎臓病治療の歴史は、透析療法の発展・普及の歴史でもあります。
透析装置がまだ不完全で、設置台数が少なかった半世紀前は、
腎不全患者は座して尿毒症による死を待つしかありませんでした。

QOL低下を余儀なくされた1960年代の透析療法

 日本の透析療法は、透析装置や医療システムの恩恵などにより、近年の国際的な調査では世界のトップレベルであることが報告されています。透析療法による合併症率が低く、透析導入後の生存期間も長いことなどが要因と考えられます。しかし、現在に至るまでには、多くの腎不全患者の苦難や犠牲が積み重ねられてきました。
 日本での透析療法の歴史は、朝鮮戦争前後の透析技術の発達によってもたらされます。戦場から近い日本に透析装置と米軍兵士が運ばれて治療が行われましたが、日本人医師も同治療に協力することで技術を習得してきました。こうした時代を経て、日本人の急性腎不全の患者に対しても治療が行われるようになりました。
 慢性腎不全への透析療法が開始されたのは1960年代です。当時の透析技術は現代に比べると劣っていました。60年代前半までは「外シャント」による治療を余儀なくされ、患者のQOL(生活の質)は決して高くありませんでした。また、当時の透析療法は未来永劫(えいごう)に続けていくという考えではなく、腎移植までの“時間稼ぎ”のための治療と解釈されていました。透析装置の技術が不十分であるため、数年で関節痛が現れ始める患者は少なくありませんでした。手足のしびれや歩行障害など、日常生活に支障をきたす人も多かったといいます。

患者を選択せざるをえなかった時代

 しかし、この時代に透析療法を受けることができた患者はまだよかったといえます。高額な透析療法を長期にわたって継続するのは、経済的に難しかったからです。1967年に透析療法に対して医療保険が適用されますが、それでも患者の負担は大きかったといいます。全国的に透析装置が不足していたため、糖尿病性腎症などの予後不良な疾患は適応外、年齢45歳以上は適応外、導入後社会復帰が不能な症例は適応外といったトリアージも行われていました。治療を受けられずに亡くなる腎不全患者は、必ずしも少なくなかったのです。透析療法を受けていても「金の切れ目が命の切れ目」といわれるなど、透析患者も不安な生活を強いられていました。
 転機となったのは1972年です。透析療法が身体障害者福祉法の対象となり、自己負担額に自立支援医療(更生医療)が適用されることによって、患者の経済的負担が大幅に軽減されました。1970年代には透析装置も現在の構造とほぼ同じものが登場し、透析療法は急激に普及します。1968年の透析患者数はわずか215人でしたが、7年後の1975年には1万3,000人に上っています。1980年に日本に導入された腹膜透析も1985年から保険適用となっています。
 1983年には健康保険法の改正により、長期高額疾病患者に対する高額療養費の支給に透析療法が選定され、患者負担の上限は月1万円に設定されました(現在は一部で2万円)。また、透析装置不足地域に対する整備費助成制度が創設され、透析装置不足の解消が図られています。

日本の最初の腎移植は明治時代

 腎移植についても触れておきましょう。その歴史は意外と古く、1910年に山内半作という人が第11回日本外科学会で発表し、それを外科学雑誌に「余は7回、腎臓を移植せり…」と書いた記録が残っています。日本における腎移植の成功例は1964年、東京大学の木本誠二が慢性腎不全患者への生体腎移植を初めて実施しています。1956年に新潟大学が生体腎移植に成功していますが、これは一時的なものであり、生着を目指した腎移植は東京大が第1号です。また、死体腎移植は翌年の1965年に行われています。 日本における腎移植の主な出来事  医療制度の観点では、1978年に医療保険、さらに翌年には更生医療も適用されるようになりました。ドナーの腎摘出に関する医療費についても1981年から医療保険が適用されています。